ツァイト紙に、チェンバロ奏者 ズザナ・ルージチコヴァ (1927~) のインタビューを見つけました。
ルージチコヴァはバッハ演奏の第一人者として世界的に活躍した方、いえ、今でも活躍している方です。ちなみにチェンバロというのは、ピアノの前身にあたる、豊かな音のする鍵盤楽器。バッハ(1685-1750)の時代は一番使われていた楽器でもあります。今でもバッハの曲は、じつはチェンバロで演奏するのが一番正統派なのです。
 
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ルージチコヴァの名前は私もよく知っていますが、彼女がアウシュビッツの生還者とは知りませんでした。驚きです。1927年生まれですから、アンネ・フランクの2歳年上にあたりますね。記事を訳してみましょう。
以下訳文

プラハの閑静な通りの建物、7階の一室。黒い杖をついた90歳になるルージチコヴァが出迎えてくれた。華奢で上品、年齢を感じさせない素敵な笑顔でいきいきとして見える。彼女こそ、アウシュビッツから生還し、チェンバリストとして第一線で活躍し、『チェンバロの貴婦人』と称えられるまでになった女性である。

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少女時代のことから話が始まった。
「私の父はピルゼンで、祖父から受け継いだ玩具・宝飾店を経営していました。母は店を手伝うかたわら、時々ピアノを弾いていました」。一人娘のズザナはピアノを習い、ドイツ人の家庭教師が勉強を、父親が英語を教えた。音楽好きな祖母と一緒にオペラを観に行くこともあった。「ポップミュージックも聴きましたよ。でも一番夢中になったのはバッハでした」。

避暑地のホテルで休暇を過ごしていた時のこと、11歳のズザナのピアノを聴いた客のひとりに、トーマス教会カントール(音楽監督)ギュンター・ラミンがいた。「お宅の娘さんの弾くバッハは素晴らしい!」。くったくのない両親はこのことを、娘に話さなかった。

やがて、ランドフスカ(当時のチェンバロ第一人者)の録音に傾倒したズザナは、ピアノ教師の勧めもあって、義務教育終了後にパリのランドフスカのもとでチェンバロを習うことになった。
「でもその時ナチスがやってきて、予定はすべて引っくり返りました」。

ユダヤ人であるという理由で、まずピルゼンのギムナージウムに通えなくなった。やがて一家はユダヤ人としてテレージエンシュタットへ移住させられ、そこで父親が死亡。
「この時はまだピアノがあって、弾くこともできましたし、状況はいつか良くなると希望を持っていたのです。でも段々と、東へ移送される人々に悲劇が起こっていることを知りました。そして私の身にも。1943年12月、母と私はアウシュビッツへ収容されることになり、友人たちが荷造りを手伝ってくれました。私はたくさんの楽譜を入れようとして、みんなに『これは必要ないだろう』と言われました。15歳でした」。

彼女はバッハのイギリス組曲第3番サラバンドの譜面を手荷物に入れた。
「シンプルで悲しみに満ちていて、本当に好きな曲だったからです。家畜列車に閉じ込められて運ばれた3日間、食事も飲み物も与えられず、死にそうにのどが渇いていました。母の横に座って、私はひたすらサラバンドの譜面をながめて…….頭の中でずっとバッハの曲を弾いていたのです。アウシュビッツに着いて、犬の吠え声とナチスのどなり声の中でトラックに押し込まれた時も、楽譜を手にしていました」。

「私たちのブロックは病人用で、向かいに子供の収容棟がありました。幸いなことに私は子供たちの世話と教育係という仕事を与えられました。これはスープの量が増えることを意味しているのです」。

「1944年6月、ナチスが健康な女性1000人、男性3000人を必要としているという知らせが入りました。選別の列は左右へ分けられてゆき、母と私は右へ進みました
。(1941年から1945年にわたる、連合軍によるハンブルグ空襲の瓦礫撤去作業だと思われます。訳者注)。
私たちは素手で瓦礫を片付け続けました。凍えるような寒い季節も作業は続き、私はすっかり手を壊してしまいました。戦争が終わって解放されたのはベルゲン・ベルゼン収容所へ移ってからのことで、私は18歳でした。(ベルゲン・ベルゼン収容所はアンネ・フランクが亡くなった所。訳者注) イギリス兵がやってきて、私にたばこを差し出したのです」。ルージチコヴァは今でも愛煙家だ。

戻ってきたズザナを見て、ピアノ教師は泣いた。『ズージちゃん、こんな手になってしまって….』
「手を壊してしまいましたが、音楽のない生活など想像できませんでした。本当に初心に戻って易しい曲から、毎日10時間から12時間練習しました」。
1947年には室内楽のコンサートに出演できるまでになった。ある日のこと、プラハの音楽家がルージチコヴァの弾くショパンの「華麗なる変奏曲」を聴き、ギムナージウムを終了していない彼女がプラハ音楽院で学べるよう尽力してくれた。

翻訳終わり
ルージチコヴァの演奏はYouTubeで聴くことが出来ます。
美しいフランス組曲、お聞きになりたい方はどうぞ。



その後の人生や音楽について、記事は続きます。興味深い内容なので、次回に翻訳を続けたいと思います。(訳が難しい部分もあって、うまくいくかどうかわかりませんが…)
長い訳文、お読み下さって有難うございます!
今回はコメント欄閉じさせていただきますね。

記事原文(ドイツ語)は こちら
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2017.02.14 翻訳中
ただ今、ツァイト紙のインタビューを翻訳中。
目標は木曜日更新です。
2017.02.05 シュピーゲル
トランプ氏の大統領就任以来、みんな振り回されてますね。
何なんでしょうか、あのヒトは。
これが4年も続くんでしょうか? ほんとに?

さて、ドイツの新聞雑誌の中でも、格式と販売部数を誇るのが、
週刊誌 『デア・シュピーゲル』
毎週110万部も売られているそうです。

そのシュピーゲル誌電子版をながめていたら、ケッサク 傑作 なイラストが目に入りました。
紙媒体の、実物のシュピーゲル誌、2017年第6号、その表紙です。ねぇ、見て!


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うん、ほんとに......





今日は、南ドイツ新聞オンライン版から、科学欄の記事翻訳です。

『冬を生き抜くためのトリック』

野生動物たちは厳しい冬を生き延びるために、たくみな進化をとげてきた。

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凍った湖面にたたずむカモ。寒そうに見えるが、かれらの脚には 奇網 と呼ばれる熱交換システムがある。動脈を通って脚に流れ込んだ温かい血液が、網目のように隣接する静脈血を素早く温めてくれるので、脚は凍るほど冷たくならず、また体温も暖かく保たれる。
人間が裸足で氷面に立つ場合と比べて、鳥の脚と氷面の温度差はごくわずかなので、脚から体温が奪われることがない。

ホッキョクグマは進化の過程で素晴らしいメカニズムを手に入れた。
彼らの体毛の中心には空洞がある。そこに空気をためることができるばかりでなく、太陽熱を体表へ送る役目もはたす。
また、白より黑い色のほうが熱を取り込む力があるので、ホッキョクグマの表皮は黒色である。

シジュウカラなどの小鳥たちは、代謝機能を維持するために多くのエネルギーが必要である。身にまとう羽毛が寒さを防いでくれるが、それでも寒い夜の間に、多くの体脂肪が燃焼される。脂肪層を蓄えたいところだが、そうなると体が重くなって動作がにぶり、捕食されてしまう。
オックスフォード大学の研究者らの観察によると、鳥たちは午前中のうちに最良の餌場を見つけ出し、確認し、しかし夕方になって初めて食べにくるという。この行動によって、夜間のための皮下脂肪を維持し、さらに捕食者から逃れる体力を保っているのだ。

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おもに水中で生活するカワウソは、低い水温から身を守らねばならない。かれらの毛皮の密度は1平方センチメートルあたり5万本。これは生き物の中で最高の密度である。

翻訳おわり
シロクマって、地はクロクマなんですね。へぇ~! (^^)
東京は明日は17度の予想らしいです。この間の寒波が寒さの底だったのでしょうか。
もうしばらくの辛抱ですね。

翻訳もと記事(ドイツ語)は こちら
2017.01.26 ジャズ羊羹
お寒うございます!
前回のブログから年月が過ぎ(笑) 知り合いから「ブログ止まってるね、風邪?」なんて言われたりしてますが、いちおう元気です。毎日寒くて、指も脳ミソも固まっておりました。

今日は、楽しい羊羹をご紹介です。
これは頂きものでして、
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もらって開けたとたんに、目がテンになりましたです。
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ひゃ~! 鍵盤よーかん! しかも完璧に美しい!

これは湯布院のお店 『湯布院CREEKS』の、ジャズ羊羹 というものです。
弾いてみたくなりますねぇ 
中にはワイン漬けのドライいちじくがゴロゴロ !
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鍵盤の模様は、柿渋と和紙を使う「刷り込み」という伝統技法で描かれたものだそうです。

指で押しても音は出ませんが(笑)、なんてお洒落な羊羹でしょう。
ピアノを習っている子供がいるお宅に、手土産によさそうです(^^)

次回更新は明後日に、翻訳で