前回に続いて、チェコのチェンバロ奏者ルージチコヴァのインタビュー、後半訳。長い文章ですが、もしお時間があればどうぞお読み下さい。
1945年にナチ収容所から生還して、プラハ音楽院で学ぶようになった所から先を読んでみます。

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ピアノ科の学生になったルージチコヴァはすぐに頭角を現し、チェコフィルとの共演も実現する。しかしバッハの作品を演奏する時には、ピアノという楽器では限界を感じて満足できなかった。おりしも音楽院にチェンバロのクラスが開設されたのを機に専攻を変え、チェンバロ奏者ズザナ・ルージチコヴァが誕生する。彼女の弾くバッハのイタリア協奏曲第2楽章(ゆっくりした音楽)は、チェンバロではあり得ないほど歌に満ちた美しいものだった。

1956年、西ドイツで開催されたチェンバロコンクールで優勝。ファイナルの演奏がきっかけとなり、フランスに留学する奨学金を取得することができた。パリでチェンバロを学ぶという彼女の夢が、大戦という災禍をまたいで、ついに実現したのだ。

ドイツ国内で演奏する時、ルージチコヴァの心中は複雑だった。
あるコンサートで、聴衆の中にアルベルト・シュペーア(ヒトラーが最も寵愛した建築家)がいたと知ったルージチコヴァは、ぞっとするような、おぞましい気分になった。 「ナチスの人々が高い教養をもっていたとか、楽器を美しく奏でる能力があったとか、到底肯定できません。彼らは精神を病んでいて、音楽を以てしても救うことは出来ないのです。ゲーテやシラー、トーマス・マンやバッハを輩出した民族が、あのように野蛮になれること自体、私たちはいまだ理解できていません。戦後もなお、全ヨーロッパがユダヤ人に起こった出来事に目をつむったのです」。

ルージチコヴァを精神的に救ったのは、夫で作曲家のヴィクトル・カラビス(1923-2006)だった。彼は亡くなるまでずっと、「なんでも自分に話してしまいなさい!」と妻に言い続けた。ルージチコヴァの収容所体験のトラウマを解くこと、彼はそれを人生の課題と考えていたのだ。
vk_convert_20170302235601.jpg (カラビス氏、 CDジャケットの写真)

夫の言葉と並んで救いとなったのは、音楽自身がもつ言葉である。彼女の弟子エスファハニによると、『半音階的幻想曲とフーガ』について、かつてルージチコヴァが次のように話したという。
「フーガの前に置かれた幻想曲は『嘆き』なのです。バッハ自身、多くの悩みを抱えた人物でした。フーガに入ってテーマが再登場する時、それはこう言っているのです。『きみは地面の上の小さな虫けらに過ぎないのだよ。しかし、きみの存在を高みへと昇華してくれる秩序がここにある。それは人間的なものを、精神性へと高めてくれる救いなのだ』と」。

チェコスロバキアでは1948年から1989年まで、共産主義体制が続いた。ルージチコヴァの名声が確立して以降も、党員に属していないという理由で、夫婦とも低い身分と見なされていた。 「共産党員以外は第二ランクの市民とされていました。『プラハの春』以降今でも、共産主義とも資本主義とも違う第3の道を、私たちは探し求めているのです」。 (彼女が音楽院で教授に昇格したのは、共産主義体制崩壊後、1990年以降のこと 訳者注)

ルージチコヴァに聞きたいことは尽きない。祖国について、夫であったカラビス氏の音楽について、同世代の作曲家たちについて、インタビューを受ける彼女の前に置かれた写真の数々… リヒテルと並んでいる写真、少女時代に撮られた家族の写真、お爺ちゃんの横で笑っている少女… これらすべての経験は、彼女の音楽に昇華されたのだ。

収容所に着いた時に握りしめていた楽譜、彼女のお守りとなった曲「バッハ:ホ短調サラバンド」。ルージチコヴァの演奏を聴くと、落ち着いたテンポで、悲しすぎず主観的過ぎず進み…..しかし最後にたった一音、バッハが書かなかった音が弾かれる。その一音Gis(ソ♯)によって、サラバンドは希望に満ちたホ長調へ転じて終わっている。(ホ短調の第三音であるソをソ♯にすると、ホ長調の主和音になる 訳者注)


翻訳終わり
いや、なかなか大変な翻訳でした。えらいこっちゃった。肩がこりましたです。
昨年、ズザナ・ルージチコヴァ90歳記念としてバッハ全集が発売されまして、このインタビューは、その紹介を兼ねて行われたものです。
なお、文中に彼女の使用する楽器についての専門的な記述がありましたが、長くなるのでその部分は割愛しました。もしチェンバロの器種云々について書かれた部分にご興味がある方がいらっしゃいましたら、コメント欄でご一報くださいね。
原文(ドイツ語)は こちら
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ツァイト紙に、チェンバロ奏者 ズザナ・ルージチコヴァ (1927~) のインタビューを見つけました。
ルージチコヴァはバッハ演奏の第一人者として世界的に活躍した方、いえ、今でも活躍している方です。ちなみにチェンバロというのは、ピアノの前身にあたる、豊かな音のする鍵盤楽器。バッハ(1685-1750)の時代は一番使われていた楽器でもあります。今でもバッハの曲は、じつはチェンバロで演奏するのが一番正統派なのです。
 
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ルージチコヴァの名前は私もよく知っていますが、彼女がアウシュビッツの生還者とは知りませんでした。驚きです。1927年生まれですから、アンネ・フランクの2歳年上にあたりますね。記事を訳してみましょう。
以下訳文

プラハの閑静な通りの建物、7階の一室。黒い杖をついた90歳になるルージチコヴァが出迎えてくれた。華奢で上品、年齢を感じさせない素敵な笑顔でいきいきとして見える。彼女こそ、アウシュビッツから生還し、チェンバリストとして第一線で活躍し、『チェンバロの貴婦人』と称えられるまでになった女性である。

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少女時代のことから話が始まった。
「私の父はピルゼンで、祖父から受け継いだ玩具・宝飾店を経営していました。母は店を手伝うかたわら、時々ピアノを弾いていました」。一人娘のズザナはピアノを習い、ドイツ人の家庭教師が勉強を、父親が英語を教えた。音楽好きな祖母と一緒にオペラを観に行くこともあった。「ポップミュージックも聴きましたよ。でも一番夢中になったのはバッハでした」。

避暑地のホテルで休暇を過ごしていた時のこと、11歳のズザナのピアノを聴いた客のひとりに、トーマス教会カントール(音楽監督)ギュンター・ラミンがいた。「お宅の娘さんの弾くバッハは素晴らしい!」。くったくのない両親はこのことを、娘に話さなかった。

やがて、ランドフスカ(当時のチェンバロ第一人者)の録音に傾倒したズザナは、ピアノ教師の勧めもあって、義務教育終了後にパリのランドフスカのもとでチェンバロを習うことになった。
「でもその時ナチスがやってきて、予定はすべて引っくり返りました」。

ユダヤ人であるという理由で、まずピルゼンのギムナージウムに通えなくなった。やがて一家はユダヤ人としてテレージエンシュタットへ移住させられ、そこで父親が死亡。
「この時はまだピアノがあって、弾くこともできましたし、状況はいつか良くなると希望を持っていたのです。でも段々と、東へ移送される人々に悲劇が起こっていることを知りました。そして私の身にも。1943年12月、母と私はアウシュビッツへ収容されることになり、友人たちが荷造りを手伝ってくれました。私はたくさんの楽譜を入れようとして、みんなに『これは必要ないだろう』と言われました。15歳でした」。

彼女はバッハのイギリス組曲第3番サラバンドの譜面を手荷物に入れた。
「シンプルで悲しみに満ちていて、本当に好きな曲だったからです。家畜列車に閉じ込められて運ばれた3日間、食事も飲み物も与えられず、死にそうにのどが渇いていました。母の横に座って、私はひたすらサラバンドの譜面をながめて…….頭の中でずっとバッハの曲を弾いていたのです。アウシュビッツに着いて、犬の吠え声とナチスのどなり声の中でトラックに押し込まれた時も、楽譜を手にしていました」。

「私たちのブロックは病人用で、向かいに子供の収容棟がありました。幸いなことに私は子供たちの世話と教育係という仕事を与えられました。これはスープの量が増えることを意味しているのです」。

「1944年6月、ナチスが健康な女性1000人、男性3000人を必要としているという知らせが入りました。選別の列は左右へ分けられてゆき、母と私は右へ進みました
。(1941年から1945年にわたる、連合軍によるハンブルグ空襲の瓦礫撤去作業だと思われます。訳者注)。
私たちは素手で瓦礫を片付け続けました。凍えるような寒い季節も作業は続き、私はすっかり手を壊してしまいました。戦争が終わって解放されたのはベルゲン・ベルゼン収容所へ移ってからのことで、私は18歳でした。(ベルゲン・ベルゼン収容所はアンネ・フランクが亡くなった所。訳者注) イギリス兵がやってきて、私にたばこを差し出したのです」。ルージチコヴァは今でも愛煙家だ。

戻ってきたズザナを見て、ピアノ教師は泣いた。『ズージちゃん、こんな手になってしまって….』
「手を壊してしまいましたが、音楽のない生活など想像できませんでした。本当に初心に戻って易しい曲から、毎日10時間から12時間練習しました」。
1947年には室内楽のコンサートに出演できるまでになった。ある日のこと、プラハの音楽家がルージチコヴァの弾くショパンの「華麗なる変奏曲」を聴き、ギムナージウムを終了していない彼女がプラハ音楽院で学べるよう尽力してくれた。

翻訳終わり
ルージチコヴァの演奏はYouTubeで聴くことが出来ます。
美しいフランス組曲、お聞きになりたい方はどうぞ。



その後の人生や音楽について、記事は続きます。興味深い内容なので、次回に翻訳を続けたいと思います。(訳が難しい部分もあって、うまくいくかどうかわかりませんが…)
長い訳文、お読み下さって有難うございます!
今回はコメント欄閉じさせていただきますね。

記事原文(ドイツ語)は こちら
今日は、ベートーヴェン先生のお騒がせな逸話をひとつ、訳してみましょう。

下はバーデン(ウィーン郊外)の記念館に展示されていた絵画。
先生の没後100周年を記念して、ある逸話をもとに描かれたそうです。
『ノイシュテッター運河沿いを歩くベートーヴェン』
G.W.ラウテンシュレーガー作

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当時ウィーン南西部の町や村を縫って、石炭や木材やレンガなどをウィーンの町へ運ぶ、63キロにおよぶ人工の運河がありました。運河はおそらくバーデンの近くを通っていたものと思われます。
ウィーンに住んでいたベートーヴェンは体調不良に悩まされ、医者にバーデンでの湯治をすすめられます。お湯以外にも街のたたずまいが気に入った先生は、生涯に15回もバーデンに長期滞在。有名な第九交響曲もここで作曲されました。

ある日のこと……  バーデン滞在中のベートーヴェンの逸話です。

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ベートーヴェンは、運河に沿った道を散歩しておりました。一心不乱に歩き続け、日も暮れる頃には、バーデンから30キロ近く離れた所まで来てしまいました。
自分がどこにいるのかわからなくなったベートーヴェンは、通りがかりの家々の窓を覗きこみます。帽子をかぶらず、古ぼけたコートを着てうろつくベートーヴェンを、人々は浮浪者だと思い、警察を呼んでしまいます。そしてベートーヴェンは逮捕されました。

男は、「自分は作曲家のベートーヴェンだ」と主張しますが、なかなか信じてもらえません。
とうとう最後に町に住む音楽監督が呼ばれ、男が大作曲家ベートーヴェンであることがわかります。
市長さんもかけつけて謝罪し、彼は馬車でバーデンまで送ってもらいましたとさ。

翻訳終わり
実話なのかどうか、そこの所はわかりませんが、着るものに無頓着のベートーヴェンにはありえる話。あまりにも服に無頓着だったので、眠っている間にこっそり友人が服を洗濯した…という話があるくらい。
そういえば刑事コロンボも、たしか浮浪者と間違われるストーリーがありましたね(*´ω`)┛
だいぶ時間がたってしまいましたが…
ベートーヴェンハウス(ウィーン郊外バーデンにある記念館)訪問記つづきです。
大作曲家の記念館ですから、本人が弾いたピアノが置かれています。
現代のピアノとちがって、ペダルが5本もついていますね。

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このハンマークラヴィーア(ピアノ)は、楽器製作者コンラート・グラーフ(1782-1851)が製作したもので、当時これを所有していたのは地方判事ヨーゼフ・ペルガー氏(1775-1846)。 ベートーヴェンはたびたび彼の屋敷に招かれ、この楽器を演奏したそうです。
現代のピアノとの違いは、音量が小さく、倍音が豊かで、響きに余韻があること。

18世紀まで鍵盤楽器といえば、弦をはじいて音を出す「チェンバロ」が主流でした。
しかし1700年頃に打弦機構(ハンマーが弦を叩く)が発明され、チェンバロよりも表現力豊かなハンマークラヴィーアが登場、しだいに改良が重ねられてゆきます。
作曲家たちの要求があって楽器が改良され、楽器の可能性に触発されて新しい楽曲がうまれる….ベートーヴェンが生きたのはそんな時代でした。

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楽器の名前も、ハンマーフリューゲル、ハンマークラヴィーア、ピアノフォルテ、フォルテピアノ、などさまざまでしたが、最終的に「ピアノ」に落ち着いて現代にいたります。
ちなみに下の写真は「シューベルト最期の家」に展示されていた楽器。こちらは現代と同じ3本ペダル。

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自筆譜も展示されていました。ちょっと不鮮明......もっと近くから撮ればよかった....
下はピアノソナタ「告別」の冒頭。有名な Le-be-Wohl (さようなら) の言葉が書き込まれた部分です。
告別2

下の方、ザザザッと線で消されていますね。思考錯誤したのでしょう。消した2小節分の音が、その上の段の余白に書き込まれています。ベートーヴェン先生は努力の人でした。
5月のウィーン旅行で訪問した「ベートーヴェンハウス」のことを、自分自身のために書き留めておこうと思います。

訪れたのは、「第九の家」と呼ばれる記念館。
ウィーン郊外の保養地バーデン(Baden an der Wien) という町にあります。

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(ヨーゼフプラッツ周辺)

ウィーンから電車で30分(路面電車でトコトコ1時間)。
温泉が湧いていて、のどかな感じの小さな町。そう、あのコンスタンツェ(モーツァルトの奥さん)が旦那をほったらかして入り浸っていたのも、このバーデンです。

ウィーンに住んでいたベートーヴェン(1770-1827) は、病気療養のために計15回もバーデンに滞在。
現在記念館のなっているこの建物では、あの有名な第九交響曲の大部分が作曲されました。
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(第九の家)

今日はこの記念館で読んだ文を訳してみたいと思います。
テーマは ベートーヴェンの病歴
26歳から亡くなる57歳までの病が紹介されています。

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1796年  チフス
1796年  聴覚障害のはじまり 耳鳴りに悩まされ始める
1800年~ 痔
1801年  高音が聴こえなくなる。耳鳴り
1802~1808年 下痢をくりかえす 発熱、激しい腹痛(1802年にハイリゲンシュタットの遺書を書く)
1807年  痛風による頭痛で、歯を一本抜く
1808年  指の炎症が化膿  爪の外科処置(手術?)
1809年  腹部疾患の慢性化
1818年~ 右耳が聴こえなくなる 左耳は残聴(ほんの少し聴力が残っている)
(この頃から「筆談ノート」を使用)
1821年~ 内科的疾患と飲酒(ワインの多量摂取)が神経にダメージをもたらす
       肝臓疾患、すい臓疾患、黄疸、リューマチ
1822年~ 耳の痛みが、とくに冬季に頻発
1823年~ 眼の痛み(糖尿病との関連がうたがわれる)
1826年  肺炎
1827年  亡くなった日の解剖により 肝硬変とわかる

翻訳おわり
いやはや、体調不良のオンパレードで、かわいそうです。
こんなに病気をかかえながら、作曲を続けていたのですね。
「亡くなった日の解剖」という記述についてちょっと調べてみましたら、ベートーヴェン自身が難聴の原因を調べるために死後の解剖を希望していたのだそうです。その結果、肝硬変、腎不全、胆石、脾臓の腫れ、腎結石etc…が判明。

その後、遺髪を使った科学的解析が何度も(最近では2007年に)行われ、ベートーヴェンが鉛中毒だったことがわかっています。当時のワインからくるものだったらしい。肺炎や腹水を治療するために主治医が鉛を含んだ薬を処方していたのも、肝硬変をさらに悪化させる原因だったらしいです。

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記念館に置かれたベッドや家具は、ベートーヴェンが使用したものではありません。
でも、家具が残っていなくても、「たしかにこの場所にベートーヴェンがいた」というだけで、音楽をやっている者にとっては充分価値のある経験でした。
ピアノは、実際に彼が弾いたものが展示されています。この件は次回につづきます。
お読み下さって有難うございます。