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2017.02.17
ルージチコヴァ 前半
ツァイト紙に、チェンバロ奏者 ズザナ・ルージチコヴァ (1927~) のインタビューを見つけました。
ルージチコヴァはバッハ演奏の第一人者として世界的に活躍した方、いえ、今でも活躍している方です。ちなみにチェンバロというのは、ピアノの前身にあたる、豊かな音のする鍵盤楽器。バッハ(1685-1750)の時代は一番使われていた楽器でもあります。今でもバッハの曲は、じつはチェンバロで演奏するのが一番正統派なのです。

ルージチコヴァの名前は私もよく知っていますが、彼女がアウシュビッツの生還者とは知りませんでした。驚きです。1927年生まれですから、アンネ・フランクの2歳年上にあたりますね。記事を訳してみましょう。
以下訳文
プラハの閑静な通りの建物、7階の一室。黒い杖をついた90歳になるルージチコヴァが出迎えてくれた。華奢で上品、年齢を感じさせない素敵な笑顔でいきいきとして見える。彼女こそ、アウシュビッツから生還し、チェンバリストとして第一線で活躍し、『チェンバロの貴婦人』と称えられるまでになった女性である。

少女時代のことから話が始まった。
「私の父はピルゼンで、祖父から受け継いだ玩具・宝飾店を経営していました。母は店を手伝うかたわら、時々ピアノを弾いていました」。一人娘のズザナはピアノを習い、ドイツ人の家庭教師が勉強を、父親が英語を教えた。音楽好きな祖母と一緒にオペラを観に行くこともあった。「ポップミュージックも聴きましたよ。でも一番夢中になったのはバッハでした」。
避暑地のホテルで休暇を過ごしていた時のこと、11歳のズザナのピアノを聴いた客のひとりに、トーマス教会カントール(音楽監督)ギュンター・ラミンがいた。「お宅の娘さんの弾くバッハは素晴らしい!」。くったくのない両親はこのことを、娘に話さなかった。
やがて、ランドフスカ(当時のチェンバロ第一人者)の録音に傾倒したズザナは、ピアノ教師の勧めもあって、義務教育終了後にパリのランドフスカのもとでチェンバロを習うことになった。
「でもその時ナチスがやってきて、予定はすべて引っくり返りました」。
ユダヤ人であるという理由で、まずピルゼンのギムナージウムに通えなくなった。やがて一家はユダヤ人としてテレージエンシュタットへ移住させられ、そこで父親が死亡。
「この時はまだピアノがあって、弾くこともできましたし、状況はいつか良くなると希望を持っていたのです。でも段々と、東へ移送される人々に悲劇が起こっていることを知りました。そして私の身にも。1943年12月、母と私はアウシュビッツへ収容されることになり、友人たちが荷造りを手伝ってくれました。私はたくさんの楽譜を入れようとして、みんなに『これは必要ないだろう』と言われました。15歳でした」。
彼女はバッハのイギリス組曲第3番サラバンドの譜面を手荷物に入れた。
「シンプルで悲しみに満ちていて、本当に好きな曲だったからです。家畜列車に閉じ込められて運ばれた3日間、食事も飲み物も与えられず、死にそうにのどが渇いていました。母の横に座って、私はひたすらサラバンドの譜面をながめて…….頭の中でずっとバッハの曲を弾いていたのです。アウシュビッツに着いて、犬の吠え声とナチスのどなり声の中でトラックに押し込まれた時も、楽譜を手にしていました」。
「私たちのブロックは病人用で、向かいに子供の収容棟がありました。幸いなことに私は子供たちの世話と教育係という仕事を与えられました。これはスープの量が増えることを意味しているのです」。
「1944年6月、ナチスが健康な女性1000人、男性3000人を必要としているという知らせが入りました。選別の列は左右へ分けられてゆき、母と私は右へ進みました。(1941年から1945年にわたる、連合軍によるハンブルグ空襲の瓦礫撤去作業だと思われます。訳者注)。
私たちは素手で瓦礫を片付け続けました。凍えるような寒い季節も作業は続き、私はすっかり手を壊してしまいました。戦争が終わって解放されたのはベルゲン・ベルゼン収容所へ移ってからのことで、私は18歳でした。(ベルゲン・ベルゼン収容所はアンネ・フランクが亡くなった所。訳者注) イギリス兵がやってきて、私にたばこを差し出したのです」。ルージチコヴァは今でも愛煙家だ。
戻ってきたズザナを見て、ピアノ教師は泣いた。『ズージちゃん、こんな手になってしまって….』
「手を壊してしまいましたが、音楽のない生活など想像できませんでした。本当に初心に戻って易しい曲から、毎日10時間から12時間練習しました」。
1947年には室内楽のコンサートに出演できるまでになった。ある日のこと、プラハの音楽家がルージチコヴァの弾くショパンの「華麗なる変奏曲」を聴き、ギムナージウムを終了していない彼女がプラハ音楽院で学べるよう尽力してくれた。
翻訳終わり
ルージチコヴァの演奏はYouTubeで聴くことが出来ます。
美しいフランス組曲、お聞きになりたい方はどうぞ。
その後の人生や音楽について、記事は続きます。興味深い内容なので、次回に翻訳を続けたいと思います。(訳が難しい部分もあって、うまくいくかどうかわかりませんが…)
長い訳文、お読み下さって有難うございます!
今回はコメント欄閉じさせていただきますね。
記事原文(ドイツ語)は こちら
ルージチコヴァはバッハ演奏の第一人者として世界的に活躍した方、いえ、今でも活躍している方です。ちなみにチェンバロというのは、ピアノの前身にあたる、豊かな音のする鍵盤楽器。バッハ(1685-1750)の時代は一番使われていた楽器でもあります。今でもバッハの曲は、じつはチェンバロで演奏するのが一番正統派なのです。

ルージチコヴァの名前は私もよく知っていますが、彼女がアウシュビッツの生還者とは知りませんでした。驚きです。1927年生まれですから、アンネ・フランクの2歳年上にあたりますね。記事を訳してみましょう。
以下訳文
プラハの閑静な通りの建物、7階の一室。黒い杖をついた90歳になるルージチコヴァが出迎えてくれた。華奢で上品、年齢を感じさせない素敵な笑顔でいきいきとして見える。彼女こそ、アウシュビッツから生還し、チェンバリストとして第一線で活躍し、『チェンバロの貴婦人』と称えられるまでになった女性である。

少女時代のことから話が始まった。
「私の父はピルゼンで、祖父から受け継いだ玩具・宝飾店を経営していました。母は店を手伝うかたわら、時々ピアノを弾いていました」。一人娘のズザナはピアノを習い、ドイツ人の家庭教師が勉強を、父親が英語を教えた。音楽好きな祖母と一緒にオペラを観に行くこともあった。「ポップミュージックも聴きましたよ。でも一番夢中になったのはバッハでした」。
避暑地のホテルで休暇を過ごしていた時のこと、11歳のズザナのピアノを聴いた客のひとりに、トーマス教会カントール(音楽監督)ギュンター・ラミンがいた。「お宅の娘さんの弾くバッハは素晴らしい!」。くったくのない両親はこのことを、娘に話さなかった。
やがて、ランドフスカ(当時のチェンバロ第一人者)の録音に傾倒したズザナは、ピアノ教師の勧めもあって、義務教育終了後にパリのランドフスカのもとでチェンバロを習うことになった。
「でもその時ナチスがやってきて、予定はすべて引っくり返りました」。
ユダヤ人であるという理由で、まずピルゼンのギムナージウムに通えなくなった。やがて一家はユダヤ人としてテレージエンシュタットへ移住させられ、そこで父親が死亡。
「この時はまだピアノがあって、弾くこともできましたし、状況はいつか良くなると希望を持っていたのです。でも段々と、東へ移送される人々に悲劇が起こっていることを知りました。そして私の身にも。1943年12月、母と私はアウシュビッツへ収容されることになり、友人たちが荷造りを手伝ってくれました。私はたくさんの楽譜を入れようとして、みんなに『これは必要ないだろう』と言われました。15歳でした」。
彼女はバッハのイギリス組曲第3番サラバンドの譜面を手荷物に入れた。
「シンプルで悲しみに満ちていて、本当に好きな曲だったからです。家畜列車に閉じ込められて運ばれた3日間、食事も飲み物も与えられず、死にそうにのどが渇いていました。母の横に座って、私はひたすらサラバンドの譜面をながめて…….頭の中でずっとバッハの曲を弾いていたのです。アウシュビッツに着いて、犬の吠え声とナチスのどなり声の中でトラックに押し込まれた時も、楽譜を手にしていました」。
「私たちのブロックは病人用で、向かいに子供の収容棟がありました。幸いなことに私は子供たちの世話と教育係という仕事を与えられました。これはスープの量が増えることを意味しているのです」。
「1944年6月、ナチスが健康な女性1000人、男性3000人を必要としているという知らせが入りました。選別の列は左右へ分けられてゆき、母と私は右へ進みました。(1941年から1945年にわたる、連合軍によるハンブルグ空襲の瓦礫撤去作業だと思われます。訳者注)。
私たちは素手で瓦礫を片付け続けました。凍えるような寒い季節も作業は続き、私はすっかり手を壊してしまいました。戦争が終わって解放されたのはベルゲン・ベルゼン収容所へ移ってからのことで、私は18歳でした。(ベルゲン・ベルゼン収容所はアンネ・フランクが亡くなった所。訳者注) イギリス兵がやってきて、私にたばこを差し出したのです」。ルージチコヴァは今でも愛煙家だ。
戻ってきたズザナを見て、ピアノ教師は泣いた。『ズージちゃん、こんな手になってしまって….』
「手を壊してしまいましたが、音楽のない生活など想像できませんでした。本当に初心に戻って易しい曲から、毎日10時間から12時間練習しました」。
1947年には室内楽のコンサートに出演できるまでになった。ある日のこと、プラハの音楽家がルージチコヴァの弾くショパンの「華麗なる変奏曲」を聴き、ギムナージウムを終了していない彼女がプラハ音楽院で学べるよう尽力してくれた。
翻訳終わり
ルージチコヴァの演奏はYouTubeで聴くことが出来ます。
美しいフランス組曲、お聞きになりたい方はどうぞ。
その後の人生や音楽について、記事は続きます。興味深い内容なので、次回に翻訳を続けたいと思います。(訳が難しい部分もあって、うまくいくかどうかわかりませんが…)
長い訳文、お読み下さって有難うございます!
今回はコメント欄閉じさせていただきますね。
記事原文(ドイツ語)は こちら
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2017.02.05
シュピーゲル
トランプ氏の大統領就任以来、みんな振り回されてますね。
何なんでしょうか、あのヒトは。
これが4年も続くんでしょうか? ほんとに?
さて、ドイツの新聞雑誌の中でも、格式と販売部数を誇るのが、
週刊誌 『デア・シュピーゲル』
毎週110万部も売られているそうです。
そのシュピーゲル誌電子版をながめていたら、ケッサク 傑作 なイラストが目に入りました。
紙媒体の、実物のシュピーゲル誌、2017年第6号、その表紙です。ねぇ、見て!

うん、ほんとに......
何なんでしょうか、あのヒトは。
これが4年も続くんでしょうか? ほんとに?
さて、ドイツの新聞雑誌の中でも、格式と販売部数を誇るのが、
週刊誌 『デア・シュピーゲル』
毎週110万部も売られているそうです。
そのシュピーゲル誌電子版をながめていたら、
紙媒体の、実物のシュピーゲル誌、2017年第6号、その表紙です。ねぇ、見て!

うん、ほんとに......
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